エドワード・バーネイズから始まる大衆操作(プロパガンダ)は、ようやくその飽和点に達しているように見えます。しかし、いまだにメディアや専門家によってばら撒かれる「お金で買われた情報」を大量消費する多くの人々にとっては、とても奇妙な世界が眼前に展開されているのかもしれません。
村上春樹著「アンダーグラウンド」は、60人の地下鉄サリン事件の被害者、関係者の声が掲載されたノンフィクション作品です。
村上さんは最後にこんな内容のまとめを書いています。
「帰依した人々の多くは、(中略) 自我という貴重な個人資産を麻原彰晃という「精神銀行」の貸金庫に鍵ごと預けてしまっているように見える。(中略)それは彼らにとってある意味ではきわめて心地の良いことなのだ。何故なら一度誰かに預けてさえしまえば、そのあとは自分でいちいち苦労して考えて、自我をコントロールする必要がないからだ。」
しかし、「もしあなたが自我を失えば、そこであなたは自分という一貫した物語をも喪失してしまう。(中略)あなたはその場合、他者から、自我を譲渡したその誰かから、新しい物語を受領することになる。」それが「何かのために血にまみれて闘う攻撃的な物語だった」としても。
自他の接点として、人は自分だけの物語を作る必要がある。そしてその物語を通して、社会の中で生きていくことができます。
その物語は自分で書くのだから、いつでも修正ができる。他人にあわせて。社会や状況にあわせて。
でも、上手(じょうず)や下手(へた)、勝ちや負けでしか判断されない社会で、上手く書くというプレッシャーから自分らしい物語が書けなかったり、他人は簡単に「勝ち」を手に入れていると勘違いして、地味な努力が億劫になったり。そんなとき、自分の物語の書き手の権利を、特定の人や集団に預けてしまったら、それは極楽な世界が待っているのかもしれません。正義の物語は誰かが書いてくれて、勝手に上から下りてくる。
たとえ、何の罪もない普通の人たちが精神的、肉体的に犠牲になることが判っていても、上から下りてくる正義の物語を生きていれば、目の前の生身の相手に合わせて修正すらしなくていい。
地下鉄サリン事件の実行犯は5人。逮捕者は約40人。
もしこの僅かな人数の人たちが、自分の物語を自分で書くことを続けていたならば、13人の方が亡くなり、約6,300人の方が負傷したこの事件は発生せずに、1995年3月20日もただ普通の平和な1日であったのかもしれません。
しかしそれは、特定の団体の中の、特定の人たちだけの話ではありません。善や正義、科学的に正しいということすらもお金で買える現代において、誰もが自分の物語を書き続けることをあきらめてはいけないことを、この事件は強く教えてくれているのだと感じます。
(この記事は2016年7月投稿記事のリライトです)
おすすめの本
『アンダーグラウンド』
村上 春樹(著) 講談社