440と世界規格

最近、作業場にあるレコードプレーヤーのピッチのつまみを操作して、異なる回転で音楽を聴いてみている。少しだけピッチを変えるだけで全然違った音に聴こえてくるから不思議だ。声も音も躍動感にあふれ、聴いてるだけで嬉しくなってくる。村上春樹著「世界の終わりとハードボイルドワンダーランド」で、音楽の無い世界で「ダニー・ボーイ」のメロディを思い出した時の感動に近いのかもしれない。

Aの音は440Hzと決まっている。ISOでもそう決められている。しかし、その音を少しずらすだけで、違った世界がどこまでも広がっていく。もちろん録音したときのチューニングや、編集したときのチューニングまではわからない。でも、ピッチを変えたことで基準の音とは異なってしまうはずだけれど、躍動感が全く違うのはどういうことだろう。

そもそも世界的な統一規格というのは互換のためであるべきと思う。国によって地域によって人によって基準が異なるので、相互にやりとりするための範囲のようなもの。あくまで基準はそれぞれの地域や人たちが決めるものであって、もちろん互換性が無くてもかまわないのだけれど、互換性を保ちたい場合にその規格に基づくだけということ。

しかし、世界的な統一規格が遵守すべきものとなると話は変わってくる。その規格は誰にもどの文化にもフェアなもので、ある集団の意図は入っていないのか、というのも大きな問題であるけれども、その規格の正当性はあるのかどうかということも大きい。例えば、世界的にこれが「正義」という規格が多数決で決められても、それが「正義」なのかは誰もわからない。

規格の統一なんていらない、というと極論のように聞こえるが、すべてがバラバラで不便であるときだけ互換性を保てばよいと思う。保ちたい場合だけ。世界で規格が一つである必要性はどこにもない。みんなバラバラの基準で音楽を制作して、みんなバラバラのアナログな機械で音楽を再生して楽しむ。そこに無限のバリエーションが展開されていくと考えるだけで、とても嬉しくなってしまう。

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